2009年8月11日火曜日

祖父の体験談

こんにちは!営業の古谷です。

この時期になると、終戦記念日も近いということで、よくテレビで特集が組まれたりしていますが、
先日、戦争を経験した世代の方々が高齢になって、風化してしまうことが、問題視されているということが
新聞を読んでいましたら記載されていました。

そこで、祖父に話しを聞いてみました。
祖父は今年で87歳。いわゆる赤紙が来たのが、22歳の時だったそうです。

訓練(といっても、殴られ、どつかれ…みたいな毎日だったみたいですが)の為に舞鶴へ行き、半年後、
広島の呉からいよいよ戦地のフィリピンへ輸送船で運ばれたそうです。
この頃には、敵からの魚雷攻撃により、かなりの輸送船が沈められていたようで、無事戦地にたどり着く確率だけでも、
かなりスゴイと祖父は語っていました。

祖父の任務は、医務課への配置だったそうです。小さい頃は、軍艦の絵をよく書いてもらっていたので、
海軍だったということは知っていましたが、任務まで聞いたのは初めてでした。

「まさに地獄やの」と言っていましたが、プライベートライアンやパールハーバーの様な映画でしか知らないので、
映画の世界でしか想像がつきませんが、どんな感じか聞いていると、ここではちょっと書けないようなかなり地獄でした。

1944年の9月に祖父の乗っていた船は、ブルネイの沖合で明け方に敵の魚雷攻撃を受け、
その衝撃で寝ていた体が天井まで飛んだようです。
命からがら、20名ほどで小さな島に辿り着くと、原住民に時計等の貴金属を渡してヤシの実をもらい、
飢えをしのでいたようです。

島では武器もないので、助けが来るまでボッ~とするしかないようですが、敵機が空を飛んでいると
何としてでも落としたいと思ったそうです。この話を聞いたときは、戦時中の敵対意識の考え(教育?)を強く感じました。

終戦直後にはマニラのジャングルにいたようで、もちろん終戦になったこともわからなかったようで、
「投降せよ!」のビラが降ってきたそうですが、ようやく日本に帰ってきたのは1945年12月29日だったようです。

祖父の戦争体験を時系列的な形でさくさくと書いてみましたが、戦地では「今日は生き延びた」と
思うようです。生き延びたという感覚は、正直、僕にはわかりませんし、僕らはすごく平和ボケしていると感じました。

戦後64年が経ち、僕らの世代が次の世代に伝える「戦争はしてはならない」という気持ちは、
祖父の話しを聞き、大切にしないといけないと思いましたし、毎日を生きていく意味をしっかりと持つことが必要だとも思いました。

もし身近なところに戦争を経験された方がおられたら是非どんな体験をされたのか聞いてみてください。
こういった行動も平和な時代に生かさせてもらっている私達の使命のように思いますので。

平和であることに感謝!!

明日は、牛島さんです!宜しくお願いします。

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